気づくセンス

 度々書いていることですが、「これをすればまわりに対してどうなるんだろう?」と「気づくセンス」があれば、周りから白い目で見られるようなことは少なくなると思うのです。たとえば、この前書いた、電車の中で携帯電話のキータッチ音を音にしたまま操作をすることなども「気づくセンス」があればやめようと言うことになると思うのです。
 昨日のことですが、Stationにある服屋さんの横を通ったときに、女性がタバコを吸いながら服を見ていて、
「えっ? 燃えたらどうするねん? 服ににおいもつくだろうし…。さすがに店の人も文句良いにくるんと違う?」
と思ったのですが、このことも「気づくセンス」があれば当然やめることだと思います。「気づくセンス」と書いていますが、もう少ししっくり来る表現はあるかなと思いますけれど。
 この「気づき」が、誰にでも気付くようなものであれば「常識」になるのでしょうし、「気づく」人が少なければ「気配りのできる人」ということになるのでしょうか?
 今日もいろんな事件がありましたけれども、「それをやればどうなるか?」という想像力とそれに伴う「気づき」があれば、やらなかったと思うんですよね。それとも、その意図に「気づいていない」のが僕なのでしょうか?



 知性とは、知識だけではなく教養だけでもなく、多くの人が見たいと欲する現実しか見ない中で見たくない現実まで見すえる才能であると思うが、見すえるだけでは充分ではない。見透した後で、それがどの方向に向かうのが最善の道であるかも理解してこそ、真の知性といえるのだと思う。言い換えれば、創造性を欠く現実認識力は、百点満点の知性ではない。

パクス・ロマーナローマ人の物語VI 第二部 統治中期 アグリッパより