プラド美術展に

行ってきました。わが家から自転車で10分かからないところなので,開館時間の15分前に行きました。暑い朝にもかかわらず,50人くらいの人が開館前に並んでいたと思います。やっぱりみんな考えることは同じですね^^; 開館と同時に中に入りましたが,それなりの人が集まっていて,最初は慌ただしい中で鑑賞することになりました。それでも,時間が経つと,みんなのペースがバラバラで,見ている人がバラけるので,全体の80%くらいは落ちついてみられたのかなと思います。
 スペインのプラド美術館からの作品と言うことで,キリスト教に絡んだ作品が多かったと思います。それもカトリックに絡んだ,聖書に忠実な作品が多かったと思います。同じスペインでも,20世紀に入って,ピカソの作品が入ってくると感じが変わってくるのですけれども,今回はそう言う展覧会ではありませんでしたからね。やっぱり落ちついて作品を見られると,ストレスが少なくてリフレッシュになります。

 今日の気になった作品は,ルーベンスのフォルトゥーナです。



 なにかを為したいと思う者は、まずなによりも先に、準備に専念することが必要だ。
機会の訪れを待っての準備開始では、もう遅い。幸運に微笑まれるより前に、準備は整えておかねばならない。
このことさえ怠りなくやっておけば、好機が訪れるやただちに、それをひっ捕えてしまうこともできる。
好機というものは、すぐさま捕えないと、逃げ去ってしまうものである。

マキアヴェッリ語録 第三部 人間篇 8より
不安定な球の上に乗っているという表現に,幸運の女神の特質を見ました。「フォルトゥーナ」と聞くと,やはりマキアヴェッリを思い浮かべてしまいます。ルーベンスの「フォルトゥーナ」は,「ヴィルトゥ」と「フォルトゥーナ」をという,マキアヴェッリの思想の中核を成しているキーワードのうち,「フォルトゥーナ」の特質を良く表しているのだと思うのです。



 運は変化するものである。そこで、人が自己流のやり方に固執すれば、運と人の生き方とが合致するばあいにおいては成功するものの、不一致のばあいにおいては、不幸な結末を見るのである。

 私は、用意周到であるよりはむしろ果断に進むほうがよいと考えている。なぜなら、運命の神は女神であるから、うちのめしたり、突きとばしたりすることが必要である。運命は、冷静な生き方をする者より、こんな人たちに従順になるようである。
 要するに、運命は女性に似て、若者の友である。つまり、若者は、思慮は深くなく、あらあらしく、きわめて大胆に女を支配するからである。

「プリンチペ」 25. 運命は人間の活動にどの程度まで力をもっているか、また、運命にはどのようにして抵抗すべきか より

 そして,このフォルトゥーナに関しては,藤沢道郎先生が,こんな文章を遺しておられます。



 ところで『君主論』の中には、独特の運命論があって、古来多くの研究者の頭を悩ましてきた。フォルトゥーナとヴィルトゥという対立観念が何を意味するのかについて、今までに論じられたことを整理するだけでも大仕事である。 ……… 『君主論』を書いた当時のマキアヴェリが、負けた賭けの払いに追いまわされてもなおこりず、毎日トランプ博打にふけっていたことを考えれば、かれの言う「フォルトゥーナ」は賭博者のよく言う「つき」「運勢」と考えたほうがいいのではないか、という気がしてくる。かれは、「運命(フォルテォーナ)」と「力量(ヴィルトゥ)」が現実を支配する割合は五分五分か六分四分である、と『君主論』の中で論じているが、これなどは、たとえば麻雀を好む人のあいだでよく言われる「つきが何分で実力が何分」「運が何分で技術が何分」といった考え方とそっくり、と言っていいほどよく似ている。

「私は、用意周到であるよりはむしろ果断に進むほうがよいと考えている。なぜなら、運命の神は女神であるから、彼女を征服しようとすれば、うちのめしたり、突き飛ばしたりすることが必要である」

 という有名な『君主論』の一説は、博打が好きでたまらぬのに勝運に恵まれなかった著者の述懐と考えてみると、また別の趣を呈する。政治という行為もまた、博打と似た面を強くもっており、マキアヴェリはどうやら政治の中の賭けでも運がつかなかったようである。

 思い切った力の政治、モラルに縛られない強力な権力の必要を説いた『君主論』も、彼の政界復帰のために打った賭けの一部だったろうが、メディチの若殿たちはこの奇書に一顧をも与えず、この賭けも失敗に終わる。

マキアヴェリと博打」藤沢道郎 より (中央公論社 世界の名著21 マキアヴェリより)
 という文章に考えが及ぶと,あのルーベンスの絵は,麻雀の展開にも通じてきそうです。