「わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡 − ルネサンス著作集7」第一部 マキアヴェッリは,なにを見たか 第五章 修道士サヴォナローラ まで読了しました。
新婚旅行に行く前の2007年5月30日に読んでいたのですが,それから読んでいない時期が続いていたので,最初から読み返しています。作品の前半の印象は,1年前とほとんど変わっていません。ただ,「アヤコさんに指摘されてはじめて気がついた大切な一節」は後半ではなく,前半にありました。
あと,書き出しのクーポラの場面は,いつ読んでもいい文章だと思います。あそこに落書きをするというのは信じられません。
『フィレンツェ史』ではあれほどの讃辞を捧げられたロレンツォが,君主制であろうと共和制であろうと,リーダー論でもある『君主論』や『政略論』で,何故これほども冷遇されねばならなかったのか。
なぜ『君主論」のモデルは,ロレンツォ・デ・メディチではいけなかったのか。
ロレンツォの晩年に起こった少しばかりの公金横領に,マキアヴェッリが神経をとがらせたとは思えない。マキアヴェッリは,君主に,モラルを求めてはいない。モラリスティックに振舞う方が民衆操作に有効ならば,その振りをせよ,と言っているだけである。また,ロレンツォの恵まれた環境とスタートに,以後の業績も割引いて評価すべきであるなどと言う,凡百の政治学者や歴史家の偏見からも,マキアヴェッリは自由であった。他より恵まれた環境は,その人の幸運 の一つであると思っていた。幸運に恵まれながらも,力量 を持たなかったがゆえに幸運さえ活用できなかった人間を,あまりにも多く知っていたからであろう。
これからみても,ロレンツォが,『君主論』のモデルであってはいけない理由は,まったくないように思える。それなのに,モデルになっていない。モデルにされなかっただけでなく,あの文中に何十と登場する人物の,一人にさえ加えられていない。
『君主論」のモデルは,チェーザレ・ボルジアであった。ロレンツォと比べれば,比較もできないくらいに教養の低い,そのうえ,自己の野望実現しか考えなかった,しかし,力量 と幸運 には恵まれていた,チェーザレ・ボルジアだったのである。なぜなのか。
ここに,『君主論』が,マキアヴェッリの思想のエッセンスである『君主論』が,なぜ書かれたかを解く鍵が隠されている。そして,それさえわかれば,マキアヴェッリはわかったも同然だ。