あの街をください

という台詞を家に帰って言うと,相方が
コンスタンティノープルの陥落だ」
と答えました。やっぱりこの発想はマニアックだと思います(^^; 少なくとも,あんまり一般的ではないと思うんですよね。

 というわけで,ローマ亡き後の地中海世界の下巻を読み進めています。第四章 並び立つ大国の時代まで読了しました。目次を見ていると,下巻は,出だしがコンスタンティノープルの陥落から始まっていて,レパントの海戦あたりで終わるようです。塩野さんの戦記物3部作と重なる期間で,ルネサンス期を扱った作品と時代は重なっているようです。読み進めていても,久しぶりに,塩野さんのルネサンスものの新作を読んでいるような気分になります。この辺りの詳細は,作品をすべて読んでから書くことになるのかなとは思っています。



 スルタン即位の一年後になる一四五二年のある日の夜半すぎ,マホメッド二世は宰相を呼びに行かせた。迎えに立った黒人奴隷にともなわれて現われたカリル・パシャは,この時刻の急な召し出しを不審に思ったにちがいないが,主人に呼び出される臣下の礼を守って,銀の盆に山と盛られた金貨がを捧げて参上したのである。
 マホメッド二世は,宰相を部屋着姿のままで迎えた。老宰相はその前の床に頭をつけて深々と礼をした後,持参した銀盆を捧げるように前にして前に置いた。二十歳のスルタンは言った。
「これはどういう意味ですか,先生(ラーラ)」
 マホメッド二世はスルタンになって以後も,公式の席以外ではカリルを「ラーラ」と呼びつづけていたのである。老宰相は答えた。
「御主人様、深夜に高位の家臣が主人の召し出しを受けた際、なにも持たずに御前に参じてはならないのは慣習でございます。わたしもそれに従いましたが,ここに持参したのは,ほんとうを申せばあなた様のもの。わたしのものではございません。」
 若者は言った。
「あなたの持つ富は,わたしにはもう必要ではない。いや,あなたの持っているよりもずっと多い富を贈ることもできるのです。わたしがあなたから欲しいと思うものは,ただひとつ。
 あの街をください」
 宰相カリル・パシャは,先のスルタン・ムラードとともに長年の間続けてきた政策が,音を立てて崩れ落ちるのを感じていた。しかし彼は,臣下でしかない。老いた宰相は力なく頭を下げたまま,全力を尽くしての奉仕を約束するしかなかったのである。
 コンスタンティノープルの運命は決まった。一千年の間存続してきたビザンチン帝国の歴史にも,終止符が打たれる日が来たのであった。

ローマ亡き後の地中海世界 下 第四章 並び立つ大国の時代 コンスタンティノープルの陥落 より


 そんなある日の夜半すぎ,トルサンは寝室からの声で呼ばれ,今すぐ宰相を召し出すよう言われた。迎えに立った黒人奴隷たちにともなわれてあらわれたカリル・パシャは,思わぬ時刻の呼びだしに,いよいよ来るべき時が来たかという想いであったのだろう。手にした銀盆に山と盛られた金貨が,マホメッドの寝室に入ったところで,バラバラと落ち,トルサンはそれを拾わねばならなかった。
 マホメッド二世は,部屋着姿のまま,寝台の上に座っていた。老宰相は,その前の床に頭をつけて深々と礼をした後,持ってきた銀盆を捧げるように前に押しやった。若いスルタンは言った。
「これはどういう意味ですか,先生(ラーラ)」
 十二歳の年に父親に位を譲られたとき,ムラードは息子に,カリル・パシャを師と思って彼の忠告を聞くように,と言ったのである。それ以来,マホメッドは,父の死後文字どおりの専制君主になってからも,公式の席以外ではカリルを,「ラーラ」,先生と呼ぶのをやめなかった。老宰相は答えた。
「ご主人様,深夜に高位の家臣が主人の召しだしを受けた際,なにも持たずに御前に参じてはならないのは,慣習でございます。わたしもそれに従いましたが,ここに持参したのは,ほんとうを申せばあなた様のもの。わたしのものではございません。」
 若者は,言った。
「あなたの持つ富は,わたしにはもう必要ではない。いや,あなたの持っているよりもずっと多い富を,贈ることもできるのです。わたしがあなたから欲しいと思うものは,ただひとつ。
 あの街をください」
 二人から離れて控えていたトルサンにも,その瞬間,老宰相の顔が蒼白に変り,そのままで硬直したのが見えた。反対にマホメッドの顔が,湖のように静かなのも。マホメッド二世が,コンスタンティノープルと言う言葉を口にせず,ただあっさりと,あの街,と言ったがために,かえってカリル・パシャには,若者の決意が並々でないのを悟るしかなかったのである。

コンスタンティノープルの陥落 第二章 現場証人たちより
 この場面については,「サイレント・マイノリティ」の「歴史そのままと歴史ばなれ」で,資料としてのあり方に関して,塩野さんが文章を書いていらっしゃいます。