葬送 第2部 - 平野啓一郎

「葬送」読了しました。

 途中に他の作品なども読んだこともあり,読了するまでに時間がかかってしまいました。平野さんの他の作品と異なり,読みやすい文体で書いてあるから,取っつきやすいかなという見込みはあったのですが,内容は他の平野さんの作品と同じように深遠で,よく咀嚼しながら読み進めるという読書になりました。哲学的な思考もあれば,宗教的な思索もありますし,芸術論もあります。平野さんの作品は文体では決まらないということがよく分かりました。「文章とは、意味を伝えるだけでなく肉体生理も伝えるもの」ですし,表現手法は作品で伝えたいものの1つの選択肢というように僕は受け取りました。そういう軽いものではないのでしょうが。一度読んだだけ,それも細切れに読んだというような側面もあるので,僕がどれだけ内容が理解出来たかはわかりません。しかし,一度では十分理解出来る作品ではないことは確かです。それでも,考えさせられることは多く,僕のこれからに活かせることが多い作品だったと思います。こういう深みのある読書を続けていきたいものです。



 その一瞬は,まるで撃ち落とされた雉の毛花が,微風に翻って裏返されたかのように,ひっそりと乗り越えられた。

 しんとなった。

 それは既に,極めて素早く一つの事態であった。そして,事件そのものは,結局その事態から追認されるより外はなかった。

 人々は即座にその事態を発見した。しかし,事件はまだ見つからず,しかも刻一刻遠ざかりつつあった。

 途方もない悲しみの兆しとそれをまだ辛うじて塞き止めている懐疑との為に誰もが静止したまま動けずにいる中を,一旦脇に退いていたクリュヴェイエ博士が「失礼,」と分け入った。それと同時に一斉に皆が顔を上げ,彼の動きを追った。息のないことを確かめ,指で瞼を開いて蝋燭の明かりで瞳を照らすと,振り返り,ゆっくりと首を横に振って臨終を告げた。その時にこそ,言葉は截然(さいぜん)と横たわるひとりの人間を切断した。

平野啓一郎 − 葬送 第二部 二十三 より


 死は,どれほど入念な予告の後に訪れようとも畢竟突然である。その最後の瞬間に於いては,それは常に唐突であり,予想外である。ショパンの命がそれほど長くはないことはもうずっと以前から分かっていた。にも拘わらず,やはりその死は彼女には突然過ぎるように感ぜられた。その取り返しのつかぬ一瞬は,今はもう過去の中にあった。同じこの部屋の同じこのベッドの上で,それはもう終わったことであった。

平野啓一郎 − 葬送 第二部 二十三 より


 ……ショパンは死んだ。……そのたった数語の言葉が彼方の友人がこの世界からいなくなってしまったことを意味する不思議。紙の上を文字の形に走ったその僅かなインクのあとが−−彼の名前とそれに続くたった数音の響きが,彼の命が消えてなくなってしまったことを意味する不思議。

平野啓一郎 − 葬送 第二部 二十四 より