葬送 第2部 - 平野啓一郎

「葬送 第2部 二十二」まで読了しました。

 以前にも書きましたが,葬送の後半はタイトルが示唆している「死」という事象と,死を目前にした人間のあり方,それも生前に活躍した人間のあり方,そして「老い」がテーマになっているような気がします。僕よりも3つ上でまだ20代の頃にこの作品を書かれた平野さんは,今後もこのテーマについて作品などで触れられる機会があると思うのですが,どのような作品を書かれるのでしょうか? 長期的な視点というものを考えると,興味深いのではないかと思って読み進めています。ストーリーはショパンが臨終を迎えようとしています。



「うん,有難う。……」

 ドラクロワは,深い感動に反して,ただそう言うことしか出来なかった。その言葉はあまりに適確に今の彼を慰め,勇気づけるものであった。しかしそれ故に,そうした言葉には一生に人がただ一度しか知ることのできないある貴重さが秘められているように感ぜられて,その不安に思わず言葉を失ってしまった。

平野啓一郎 − 葬送 第二部 十三 より


 彼は改めてモンテスキューの議論を思い返した。いかにも人間とは不具合に出来ている。そして若い頃には大いに濫費した鋭敏な感受性がまさに衰微してゆこうとするその時になって,精神は初めて誤りから遠ざかり,理解力を増し,何事かを確実に計画し,遂行する知性を得ることとなる。どうしてそれらの能力を二つ一緒に兼ね備えることが出来ないのであろう? 今ほど多くを知り,明晰に考え,しかも嘗てのように瑞々しく感ずることが出来るならば。−−それは自然界のすべての生き物に備わる宿命であろうか? 木が花と実とを決して同時に得ることが出来ず,実をつける為には先ず花を咲かせねばならないように,精神の成熟とはただあの感受性の甘美で曖昧な繊細さを経た後にしか,固より手に入れられぬものなのであろうか? 偉大な芸術家とは,きっと,まさしく知性が完全に彼を支配する年齢になって猶,若さの特性である感覚の強烈さを何ら損なうことなく保ち続けている人なのだ。知性が経験を食して漸く肥え始める時に,感性がその摩滅に耐え,依然として強靱である人に違いない。

平野啓一郎 − 葬送 第二部 二十二 より