Res Gestae Populi Romani XIII - DE ULTIMIS LABORIBUS

「最後の努力 - ローマ人の物語XIII」 第一部 ディオクレティアヌスの時代 統制国家 まで読了。

「三世紀の危機」をなんとか乗り切った*1ローマの物語が始まりました。まずは、ディオクレティアヌス帝の「努力」から物語が始まっています。
 軍事システム、統治システム、税制システムの「改革」がディオクレティアヌス帝の取り組んだ「努力」となりますが、この物語を読んでいると、「三世紀の危機」に限らないローマの統治者階級の「継続性」が途切れたことによる損失が大きいという印象がXII巻を読んでいたときよりも強くなりました。
 これまでの統治システムの欠陥が「三世紀の危機」により明らかになり、改革によって大きく変える必要が出てきた、ということは当然のことでしょうけれども、これまでのローマがやってきたことのシステムとの隔たりが、あまりにも大きいように思います。「教育」だけではないでしょうけれども、「一度なくしてしまうとすぐには復帰できないことを地道に継続する大切さ」があてはまる事例なのだと思います。
 このことは今の僕にとってあてはまる場面が多いなと思っています。もちろん、仕事のことでもそうですし、そのバックボーンになる電気のことや、英語のこと、一番大切なことは人間としてのありかた、人との接し方などでしょうか? ほかにもありますけれど。「無くすと取り返すのが大変なもの」は強く意識して、無くさないようにすることが大切だなと思っています。

 これまでに読んだことで、注目しておきたいことは、次の1節です。



 この時代以降のローマ帝国への評言に、「ローマ軍の蛮族化」とか「ローマ帝国の蛮族化」がある。だがこれらを文字どおりに受けとって理解できた気になっては、実態を見損なう危険がある。ローマ軍も騎兵を主戦力にするようになって蛮族化し、ローマ帝国もミリタリーとシビリアンのキャリアが分離するようになって蛮族化した、のは事実である。だが、真の問題は、蛮族のほうにローマ化する気がなくなったことであり、ローマ帝国自体もまた、ローマ的でなくなったことのほうにあったのだ。敗者同化路線を着実に歩んだことで、ローマは興隆した。だが、その同じ路線も三百年を経た三世紀末、衰退の一要因になりつつある。以前は敗者も同化を喜んでいたのだが、今では喜ばなくなったからであった。諸行無常とは、このようなことかと思ってしまう。

最後の努力 - ローマ人の物語XIII 第一部 ディオクレティアヌスの時代 兵力倍増 より
 ついに、ローマ人の物語でも、「海の都の物語」や「サイレント・マイノリティ」で触れられている、


 国家であろうと民族であろうと、いずれもそれぞれ特有の(スピリット)を持っている。そして、国家ないし民族の盛衰は、根本的にはこの魂に起因している。盛期には、このスピリットがポジティーブに働き、衰退期には、同じものなのに、ネガティーブに作用することによって。これが、私の仮説である。

 数年前に発表したヴェネツィア共和国の盛衰史を書いた『海の都の物語』の中で、私は、この仮説を、はじめて公にしたのであった。

サイレント・マイノリティ 私の衰亡論 より
について触れる箇所が出てきました。塩野さんのライフワークで一番のメインとなるところだと、僕は考えているのですが、これからどうなるのでしょうか? XV巻を読みきる前に、「海の都の物語」は読んでおかないといけないと思っています。

 もう1つは、さっきも書いたことと関連しますが、ちょうど今の僕の年齢にも合致するこのことです。



 二分割にしたのは、一人では解決不可能と見たがゆえの決断であった。自分には、五年という短期間で三分されていた帝国を再統合したアウレリアヌスのような、卓越した軍才はないと認識したディオクレティアヌスの、この時期の判断の的確さは賞賛に値する。ちなみに、皇帝アウレリアヌスが縦横無尽の活躍をしていた時期は、ディオクレティアヌスの二十五歳から三十歳までの時期と一致していた。この年代を学ばないで過ごしてしまった人は、一生学ばないで終わる。当時のディオクレティアヌスは無名だったが、優れた観察力の持ち主ではあったのだろう。

最後の努力 - ローマ人の物語XIII 第一部 ディオクレティアヌスの時代 「二頭政(ディアルキア)」 より
 今の僕の問題洞察能力、そして学ぼうとしていること。その量と質は充分なのか? 内容はどうなのか? それを吟味していくことが大切だと強く感じながら読みました。

*1:これをVIII巻のタイトルのように「危機を克服した」とは書きにくいですね。やっぱり。克服できたという状態なら、ディオクレティアヌス帝の「努力」は必要ないでしょうから。