「ダンテ − 神曲」煉獄篇読了。
今日で煉獄篇を最後まで読み切りました。ヴィルジリオ(ヴェルギリウス)とのわかれはさりげなく、そして、ベアトリーチェとの再会はビックリする内容で書かれていました。
態度峻厳、王者の風格をそなえ、語りはすれど、最も烈しい言葉は最後までさしひかえておく人のように、淑女はこう語りついだ。
「こなたを視られよ、とくと! げにこなたこそ、げにこなたこそ、ベアトリーチェ。いかなればおおけなくもこの山登りをなされた? ここに(エデンの園)人の幸ありとはお知りでなかったか?」
私の視線は、思わず伏して清澄な流れに落ちた。しかし、そこに映るわが姿を見るなり、私はまたいそぎそれを岸辺の草へ移す、わが額にのしかかる恥の重みに堪えかねて。ダンテ 神曲 煉獄篇 第30歌より
そりゃぁ、地獄と煉獄を苦しい思いをして旅した後に、アダムとイブが追放されたエデンの園に着いて、亡くなって10年経ったベアトリーチェに再会したと思いきや、このように、「亡くなってからほかの女に気が向いて、手を出した〜」と責められるとつらいでしょうねぇ。この展開は本当にビックリしました。僕も気をつけないとね。って念のために書いておきましょう。
この者は、年若きころ、比類稀な素質にめぐまれ、その正しい志向のどれ一つとして、他眼を驚かす程のみごとな証にならぬはあるまい、と期待されていた。
さりながら、土の力逞しければ逞しいほど、蒔く種わるく、耕しもせぬにおいては、土地は醜草はびこらせ、荒れすさぶもの。
暫しがほど、わたしはわが顔容を、この者の支えとした。すなわち、わがうら若い眼を方便に、この者をひきつけ、わたしが先達となり、正しい目標へ向かわせた。
わたしが第二の齢の入口で生を変えてしまう(死んでしまう)と、たちまちこの者はわたしから身を引き、わたし以外のひとびとに赴いた。
肉から霊へとわたしが登り了え、美と徳がわたしにいや増につれ、この者、日に添えて、わたしへの思いうすらぎうつろい、
ついに真ではない道に足踏み入れ、善装う虚仮の象を追う、それが全くの空手形とは、おろかにもつゆ疑わず。
わたしは一再ならず霊感を祈きもとめ、夢に、またさまざまの異象に、それを示してこの者を喚びかえそうと力めたが、験さらに無し。眼をくれようともしなかった。
そこまで低く墜ちたからには、この者を救いあげる方便は全くの手づまり、望み絶えたやからの姿を見せるよりほかに(地獄の人々を見せること)。
このゆえにわたしは死者の門をおとない、この者をここまで先導したかの人に(ヴィルジリオ)、涙ながらにわたしの切なる願いを申し述べた。
神の崇高な定めは破られることになろう、涙溢りおとして悔悛の負債もつぐのわず、もしレーテが渡られ、
そのうまし水が味わわれるとすれば。」ダンテ 神曲 煉獄篇 第30歌より