十字軍物語2

 十字軍物語2を読了しました。中世の時代を扱った作品ではあるのですが,二項対立などは今に通じるところも多くありますし,読んでいて,あれこれ考えるヒントになる場面もあったと思っています。塩野さんは,戦闘やそれに伴う兵站の話になると,やっぱり上手ですね。最後の3巻目も今から楽しみです。



 人材とは,なぜかある時期に,一方にだけ集中して輩出してくるものであるらしい。だがこの現象もしばらくすると止まり,今度は別の一方のほうに集中して輩出してくる。
 これより始まる第二巻は,キリスト教側に輩出した男達を描いた第1巻に次いで,イスラム側に輩出してくる男達を中心に物語る巻になる。なぜ双方とも同時期に人材は輩出しないのか,という疑問に明快に答えてくれた哲学者も歴史家もいない。人間は人間の限界を知るべきという神々による配慮か,それとも,これこそが歴史の不条理なのか……。

十字軍物語2 第一章 守りの時代 より


 陸上のリレー競走でも,バトンが受け渡されている間は速度が落ちる。国のリーダーの交代するときは,対応策が遅れる。もちろん敵は,それを予想して攻勢に出てくる。ボードワン一世が死にイェルサレムの王位がボードワン二世の手に渡った時期にもそれが起こった。

十字軍物語2 第一章 守りの時代 ボードワン二世より


 広く人間世界に眼をやれば,まるで噴水でもあるかのように,一時代に人材が輩出する現象がしばしば起こるということに気付く。そして,これまた噴水のように,多量の水を勢いよく吹き上げた後は,ストンと落ちる感じで,人材枯渇の時代に入って行く。
 この種の現象による影響が国内にのみ留まっているならば,問題の解決はさほどむずかしくない。前の時代に築き上げた蓄積を喰いつぶしながらにしても,腰をすえて次に水が噴き上がるときを待てばよいからである。
 だが,不幸にして人間社会では,人材輩出と人材枯渇のローテーションは,他の国でも同時に起こってくれないのだ。こちらが人材枯渇の時代に入ったのに,あちらでは人材輩出の時代を迎えるということのほうが,よほど高い割合で起こるのが人間世界なのである。

十字軍物語2 第一章 守りの時代 十字軍側の女達 より


 キリスト教徒は,苦悩する他者を見るのが,ミもフタもない言い方をするならば,大好きなのである。なぜなら,自分に代わって苦悩してくれている,と思えるからだ。そして,自分に代わって苦しんでくれているその人を,尊敬するようになる。それが神や聖人ならば,この想いは信仰になる。もしもキリスト教徒の心の奥に常にあるこの想いがなければ,十字架状で磔刑にされた姿のイエス・キリストが,ああも長く広く信仰の対象になるはずがない。キリスト教では,愉しみよりも苦悩に,人々は感動するのである。それも,自分たちを導く立場にある人であればなおのこと。

十字軍物語2 第二章 イスラムの反撃始まる 修道僧ベルナール より


 シリア・パレスティーナという同じ地方に建設された城塞でありながら,十字軍時代の城塞群は,真の意味での「ネットワーク」にはなっていなかったのだ。故に,安全保障上の「リメス」と考えることはできない。点在する城塞を守ることが意味をもつのは,近くの「軍団基地」からの応援を期待でき,その到着を待って敵を前後から挟み込むことにあったのだから。中近東に打ち立てた十字軍国家には,ローマ時代のような「軍団基地」はなかったのである。

 だがこれも,封建制社会であった中世ヨーロッパという,指揮系統が一本化されていなかった社会を中近東に移植したがゆえであった。要するに,中近東の十字軍国家は,始めから終わりまで,ついに指揮系統が一本化されなかった社会なのである。防衛上のシステムも,その社会を反映していたのだった。

十字軍物語2 第二章 イスラムの反撃始まる 十字軍時代の城塞 より


 中近東の十字軍勢が必要とするあらゆる物資の海上輸送を引き受け,聖地巡礼に来るヨーロッパの善男善女を乗せては地中海の西と東を往復し,新たな十字軍が出発するとなれば,彼ら以外にはそれをできる人がいない以上,人と馬と武具すべての輸送を引き受けていたのが,イタリアの海洋都市国家の男達であった。
 だが,この人々は,従来の十字軍史の研究者の多くから,十字軍の成員とは認められてこなかった。聖地の防衛を十字架に誓って,オリエントに来た人々ではなかったからである。着衣の胸に,何色であろうと十字をぬいつけてもいなかった。

 ただし,最近の研究者ともなると,イタリアの海洋都市国家による東地中海域の制海権堅持が,十字軍国家の存続に大きく貢献したことは認めるように変わっている。サラディンによってシリアとエジプトが統合された後でも,シリア・パレスティーナの海にエジプト海軍を一隻たりとも寄せつけなかったのだから,ヴェネツィアジェノヴァとピサの海軍による制海権の堅持によるこの面での貢献は,隠しようもなく明らかであるからだ。それでもなお,この男たちによる交易を通しての経済活動による貢献については,いまだに言及されることがほとんどない。

 なぜなら,この男たちによる「貢献」は,キリストへの信仰のためではなく,カネを稼ぐためにやったことの結果であったからだった。

 私には,欧米人の書く十字軍の歴史は,ある矛盾を内包しているように思える。それは,キリスト教徒による十字軍遠征の真因を,十字架への誓いという信仰のみに見たいという想いのあまりに生じた,矛盾ではないかと思う。

 欧米の研究者の多くはいまだに,十字軍に参加し健闘した戦士のうちでも,聖都イェルサレムの「開放」後は神への誓いは果たしたとして帰国して行った人々を,領土欲のなかった人として賞賛している。一方,神への誓いは果たした後も中近東に居残り,自前の領土の獲得とその維持に執着した十字軍の諸侯を,世俗的な欲望に駆られたとして非難するのだ。

 しかし,十字架への誓いは果たしたことで満足し帰国して行った「十字軍戦士」のほうが断じて多かったことが,「神への誓いが果たされた後の聖地」に,絶対的で慢性的な兵力不足をもたらしたのである。その結果,エデッサ伯領を奪還され,アンティオキア公領の防衛をビザンチンの皇帝にゆだねざるをえなくなり,ついにはイェルサレムすらも奪い返されてしまうことになるのだ。

 中近東の十字軍諸国家の,これが現実であった。エデッサを奪われたと知ってびっくりし,第二次十字軍を送り出す。また,イェルサレムを失って初めて仰天し,第三次十字軍がヨーロッパを後にする。だが,それではすでに遅かったのである。

 歴史家ならばこの点を突かねばならないと思うが,その点を突いて行くと,世俗的な領土欲やカネ稼ぎも認めることになってしまうので,「神がそれを望んでおられる」の号令一下始まった十字軍の歴史を書くには,キリスト教徒としてはどうも釈然としないのかもしれない。なにしろ,持続性ということならば,神への誓いよりも我欲のほうが持続性があるということになってしまい,それがいかに人間性の現実であろうと,受け容れるのは気分の良いことではないのである。

十字軍物語2 第二章 イスラムの反撃始まる 中世の経済人たち より


 熾烈な同士争いも衰退期になされると活力の減退につながるが,同じく仲間うちの争いでも,それが興隆期に成された場合は,かえって双方ともの活力の向上と国力の繁栄をもたらすということだ。十字軍時代,ジェノヴァヴェネツィアも,まさに興隆期に突入していたのであった。

十字軍物語2 第二章 イスラムの反撃始まる 商館 より