Res Gestae Populi Romani XII

TERTII SAECULI CRISIS

「迷走する帝国 - ローマ人の物語 XII」読者にのみ読了。

去年までのように、通勤(通学)中にローマ人の物語を読み進めていない理由は、通勤中に落ち着いて電車の中で本を読める時間が短くなったためです。今の通勤では、15分弱電車に乗って通勤していますが、ローマ人の物語は15分で細切れに読み進めていくと、内容が十分に理解できないと思うので、読み進めていないのです。この理由から、「読者に」のみ読んだ状態です。
 この「読者に」だけから、次のことを書こうとしているのですが、ナギ姉さんのようにすでに1回読んで、2回目も読んでみようと思われる方がこれを読むと、「それは違うよ〜」と思われるかもしれません。僕が「読者に」を読んで思ったことをこれから書くと言うだけで、僕はXII巻をまだまったく読んでいないことを頭に入れて読んで下さるように御願いします。と書いていても、当たっているかもしれませんけどね^^;

 この「読者に」で一番気になったのは次のところです。



 それ以前の数々の危機と三世紀の危機は、「危機(crisis)」という言葉では同じでも、性質ならばまったくちがってくるからである。克服することのできた危機と、対応に追われるだけで終始せざるをえなかった危機のちがい、としてもよい。自分たち本来の考えなりやり方で苦労しながらも危機を克服することのできた時代のローマ人と、目前の危機に対応することに精いっぱいで、そのためには自分たちの本質まで変えた結果、危機はますます深刻化するしかなかった時代のローマ人、のちがいであるといってもよかった。この巻以降のローマ帝国は、もはや明らかに、後者のタイプの危機に突入していくのである。

迷走する帝国 - ローマ人の物語XII 読者に より
 すでに色んなところで書いていますように、僕は「海の都の物語」と同様に、「ローマ人の物語」も衰亡期の叙述が作品の真骨頂になると思っているとともに、そうなることを期待しているのですが、XII巻の「読者に」のこの部分を読んで、これまで「ローマ人の物語」を読むときにずっと気になっていた「海の都の物語」の次の一節を思い浮かべました。


 歴史家は、国の衰退は、その国の国民の精神の衰微によると言う。だが、なぜ衰微したかについては、われわれが納得できるような説明を与えてくれない。古代ローマ盛衰論をはじめとする数々のその種の歴史書を読んだ後で、われわれの頭に残るのは、
 奢れるもの久しからず、ただ春の夜の夢の如し
 の一句を越えるものではない。そして私のような者には、なぜ奢るようになったのか、いや実際に奢ったのであろうか、と言う疑問すら浮かんでくる。
 盛者必衰は、平家に限らず、歴史の理である。そして、それが、
  遠く異朝をとぶらうに、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱い、唐の禄山、これらは皆旧主先皇の政にも従わず、楽しみを極め、諌めをも思い入れず、天下の乱れんことをも悟らずして、民間の憂うところを知らざりしかば、久からずして亡じにし者どもなり。
 であったのならば、彼らの末路も当然の結果であって、われわれとしても納得するしかない。
 だが、私には、少なくともヴェネツィア史に関するかぎり、このように単に精神の衰微や堕落のみに立脚した論に、どうしても賛同することができない。なぜなら、ヴェネツィア人は、旧主先皇の政に従い、楽しみも節度を保ち、諌めは思い入れ、天下の乱れんことを悟り、民間の憂うところを知りながら、盛者必衰の理の例外になりえなかったからである。ならば、これには、別の理由がなければならないではないか。
 ヴェネツィア人の特徴は、自分たちの持てる力を、周囲の情勢とかみ合わせながら、いかに効率良く運用できるかを追求し続けた点にあった。これが、ヴェネツィアが大をなした根本的な要因であったが、同時に、衰退の要因ともなったのである。
  ………
 その結果、ヴェネツィアの経済は、ヴェネツィア人の経済というものに対する合理的な考え方によって、投資の対象が次々と代わっても、総体的には、長期にわたって浮沈の少ない豊かさを保持することができたのである。しかし、このヴェネツィア人の性向は、意外な副産物を生んでしまうことになった。
 投資の対象の変移は、それをする側に、その投資が定着するに連れて精神構造の変移をもたらさずにはおかないものである。
 ヴェネツィア人は変わったかもしれない。だが、それは、彼らが奢った結果ではない。投資の対象の変移に連れて、彼らの精神も変わっただけなのである。一民族の衰退の原因を、その民族の精神的堕落の結果とするよりは、よほどこのほうが恐ろしい。その民族の魂とも呼んでよいものに起因していることなのだから、治す薬もないことになる。盛者は、やはり必衰なのである。そして、この投資先の変移は、ヴェネツィア共和国の衰退につながることにもなった。

海の都の物語 第12話 地中海の最後の砦でより
そして、「海の都の物語」で、何故この1節が重要であるのかについては、「サイレント・マイノリティ」の「私の衰亡論」で詳細に述べられています。


 国家であろうと民族であろうと、いずれもそれぞれ特有の(スピリット)を持っている。そして、国家ないし民族の盛衰は、根本的にはこの魂に起因している。盛期には、このスピリットがポジティーブに働き、衰退期には、同じものなのに、ネガティーブに作用することによって。これが私の仮説である。
 数年前に発表したヴェネツィア共和国の盛衰史を書いた『海の都の物語』の中で、私はこの仮説を、はじめて公にしたのであった。

サイレント・マイノリティ 私の衰亡論 より
 このあとに、この仮説を立てられた理由、この仮説を実証する1つの例として「海の都の物語」ヴェネツィア共和国について記述した理由などが書かれてありますが、詳細は、「サイレント・マイノリティ」を読んで頂きたいと思います。
 僕は「ローマ人の物語」の衰退期の叙述においても、基本的にこの路線に沿って物語が進んでいくと思っています。昨年、「終わりの始まり」というローマ人の物語XI巻のタイトルを見たときから、ローマ史を書かれてから11年目であり、「海の都の物語」を発表された1981年から21年たった昨年から、ようやく


 衰亡論を論ずるならば欠くわけにはいかない古代ローマのほうは、守備範囲外で、ということはまだ勉強中なので、確信を持って言えないのは残念だが、この私の仮説が適用可能かどうかを知ってみたい気持ちは充分にある。なにしろ、こういう視点で論じた古代ローマ衰亡論を、わたしはまだ読んだことがないからだ。
 ただ、私の仮説では、興隆期に鮮明に現れるその民族特有のスピリットを見つけ出し、それがどのように発揮されたかを叙述し、しかし同じ特質がある時期を境として、今度はどのようにネガティーブな方向に流れていくかを述べることはできるが、それを阻止する処方箋は示すことはできない。なぜネガティーブに発揮されるようになったかまでは、書ける。だが、ポジティーブな発揮だけで終わらせるための方法は、示すことはできないのだ。
 なぜなら、魂はある民族をその民族たらしてめているものであって、いかに時代が変わり、ネガティーブな方向に進みはじめたからと行って、取りはずしてしまうわけにはいかないものだからである。例えて言うならば、われら日本民族のスピリットは和の精神にあるとするならば、和の精神が時代に合わなかったとしてそれを捨てようものなら、もう日本人ではなくなってしまう、というのに似ている。これが、盛者はやはり必衰だとした、私の想いの根拠だった。

サイレント・マイノリティ 私の衰亡論 より
を実現する塩野さんのライフワークがはじまったのだと思ったのですが、この想いはXII巻の「読者に」を読んでより強くなりました。ローマ人の「魂」は、X巻までに色々出ていて、これまでそれらがポジティブに発揮されていたことが記述されていましたが、それがどのようにネガティブになっていくのかも、あまりDiary等では書きませんでしたが、「ローマ人の物語」を読む度に楽しみにしていたことでした。
 といっても、冒頭で書いたように、僕がそう勝手に思っているだけで、外している可能性の方が大きいのですけれどもね。