最近になって思うことは

「『同じ言語』で語りあえることの尊さ」ですね。どうしてそれを強く意識するようになったのでしょうね。やっぱり環境が変わったからかな? このサイトを続けているのも「『同じ言語』で語りあいたい」からでしょうか? ってこのメッセージは昨日書かないといけませんよね。それは何故でしょう?^^;



 友人とは、こういう間柄を指すのではないだろうか。そして、この種の友情の恩恵を得られるのは、友情関係にある相手方の人物の質にだけ、左右されるのではない。こちらの「質」のほうが、決定的要素である場合が多いものである。私だったら、マキアヴェッリは、ステキな男だと思う。………


 私は、恋愛は交通事故と似ていて、一生事故にあわない人もいれば、幸か不幸か、何度かあってしまう人もいるものだ、などと言ってみたけれど、なぐさめにもならなかったように思う。………


 このような関係に一度でも恵まれた人は、幸運な人だと私は思う。まったく、交通事故と同じで、死ぬ人もいれば瀕死の重傷を負うものもあり、かといって、かすり傷だけで助かる人もいるという具合で、代償はさまざまではある。しかし、代償を払う価値は充分にあるのではないか。少なくとも、生きていくことは素晴らしいと、心の底からいうことができる。
 よく、話題のない人、という評価を耳にすることがある。だが、話題のまったくない人などいるものではない。共通の話題がないか、それとも、精神的なつながりを持っていない者同士が話すからである。共通の話題だけにかぎるならば、同じ職場に勤めていたり同郷の出であったりするだけで、話の種がつきない程度には見つかるだろう。だが、ともに同じ「世界」で遊ぶためにはぜひとも必要な、「同じ言語」で語ることのできるつながりとなると、恋愛と似ていて、一生出会わない人と何度となく出会う幸運な人と、はっきり分かれるように思えるのだ。

男たちへ 第7章 「同じ言語」で語り合えることの尊さについてより