文明が衰亡するとき − 高坂正堯

 第一部 強大帝国ローマの場合 読了しました。
 前回に読んだのが大学2回生の頃なので,10年近く前になりますね。当時と今との期間に経験してきたことや,ローマ人の物語をXV巻まで読了したことなどから,当時とは違った感想を持ちながら読んでいます。当時よりも理解は進んでいるのかなと個人的には思っています。ローマ史後期の知識が増えているということもあるのでしょうけれど。組織のあり方とか,性質などに関することも,当時よりは考えているからかなとは思います。
 ローマが「それ自身の重みに圧せられて」つぶれていったということや,指導者と市民の質が変化していったということに関しては,ローマ人の物語を読み進めているときから感じていることでした。高坂さんのこの作品はローマ人の物語に比べると短い作品ですが,前提知識があると,まとめられている分,理解が深まる作品かなと思っています。



 実際私には,ローマの衰亡の原因についての定説は,いつまで経っても出そうには思われない。しかもなお,優れた衰亡論には共通の感慨を呼びおこすものがある。ベルナルディの先の言葉は,ローマの衰亡が不可避のものであったと言うことを感じさせる。それはまた,「この構造物はそれ自身の重みに圧せられてついえたのである」というギボンの有名な言葉にも共通するものがある。この感覚が重要なのではなかろうか。

文明が衰亡するとき 第一部 巨大帝国ローマの場合 第三章 巨大なものの崩壊 III それ自身の重みに圧せられて より
 この第1部の終わりで高坂さんが述べられている衰亡論に対する考え方は,10年前よりも強く共感しています。どうして以前はこれに気がつかなかったんだろう? と考えるくらいに。この違いが起こってきた原因は何かなと考えると,いろんなことが出てきそうです。


 ある文明の衰亡の原因を調べて,その点に注意すれば衰亡を避けられるという結論を引き出すのは,衰亡論の正しい読み方ではない。そうではなくて,衰亡に対する態度,あるいは古典的な知恵とも言うべきものを得られるならば,衰亡論から学ぶところは大きいのである。

 後から考察するように,没落の不可避性という感覚は,ここ百年ほどの間,地上からほとんど姿を消していた。人々は進歩を信じていた。しかし,科学と技術の素晴らしい進歩にもかかわらず,運命というものはやはり無常なものであることを,われわれは最近再び想起させられるようになった。また,運命はよく変わる。だから二十一世紀に入ったときに世界と日本がどのようになっているかと言うことは,われわれの予測能力を超えているのではなかろうか。だから,個人的な感想をはさむなら,そのように二十年先がよく分からないときに,親であり,教師であるのは嫌なことだと私はときどき思う。二十年先に役立つ人間を作るのがわれわれの使命だが,しかし,二十年先のことは判らないのだから,こういう教育がよいという確信は持ち難い。

 しかし,あきらめては答えにならないし,人間はそうしないであろう。運命は無常でかつ急変するものであるが,それに対して堂々と立ち向かうというのが,衰亡論の与えてくれる歴史観なのである。冒頭でも述べたように,ローマ史を書いたギリシア人の歴史家ポリピュウスは,ローマがカルタゴを滅ぼしたときに,その司令官スキピオが吐いた言葉を激賞した。「勝ち誇るローマも,いつかは同じ運命に見舞われるだろう」と語ったが,ポリピュウスは,これ以上に政治家らしい思慮深い態度を見つけることは難しいであろうと表した。運命は変り易く,また無常である。しかし,だからこそ人間は,いついかなる場合にも最善のことをすべきであるという態度がそこにうかがわれるからである。つまり,幸運に臨んでは慎み深く,他人の不運からは教訓を学んで,つねに最善をつくすという態度が大切なのである。

 たしかに,現在の世界に住む者にとって,ひとつの問題を解決しても,またすぐやっかいな問題が出て来て,われわれはそれに苦しむことになるだろうとか,二十年先には,全然異質の困難な問題が出て来て,世の中は大混乱に陥るだろうといった悲観的な気持ちになることは,しばしばあるだろう。しかし,だからと言って投げやりにならず,その都度目の前の問題に全力で立ち向い,解決していくことは可能である。それが衰亡論を持った文明の生き方であり,われわれが衰亡論から学ぶものであるように思われる。

文明が衰亡するとき 第一部 巨大帝国ローマの場合 第三章 巨大なものの崩壊 IV 危機意識がローマを振り返る より