ディアローグ − 平野啓一郎

 読了しました。モノの前に,ディを読んだのもおかしいかなとは思いますが,平野さんの対談はあまり読んだことがなかったので,どういうテーマや内容のものが多いのか,それを把握したいと思って,こちらの方から読み始めました。
 平野さんの作品や表現に対する姿勢や考え方を,これまでの作品とは異なって,対談という形式から垣間見ることができることは興味深いと思って読みました。チェックを入れたところは何ヶ所かあって,それにすべて触れるのはちょっと量が多いかなと思うので,最近気になっている言葉の選び方ということに関して,この一節を。



平野 よくいわれるように,日本語の「私」あるいは「僕」というものと,「I」とか「Je」と言うのは同じかどうかという問題ですね。例えばドラクロワ社交界である女性としゃべっている場面を書こうとする。そうすると,「私は」という口調はあまり違和感がないんですね。もちろんそのとき,フランス語では「Je」と言うでしょう。しかし,日記なんかで内省的なことを書いているときの「Je pense」というような文章を,日本語で「私は」と訳すと,ちょっと違和感がある。
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大江 小説の中で人物がほかの人物に向かって,あるいは読み手に向かって発言する際,もちろん主語が必要です。そこでまず「私」か,「僕」か,「おれ」かと決めることが必要です。外国語の小説を訳そうとする時も,外国の人物たちが「Je」とか「I」とかいっているところに,いわれたとおりに特別に日本語的な,すなわち社会的に条件づけられたと言うか,それ自身によるというよりは,他者の存在によって決められた自己規定による代名詞を選ぶことになる。人物が「私」というとき,「おれ」というとき,ある程度,人物の位置も人との関係も決まってしまう。そういうことを自分の小説でどうするか,そういう日本語で翻訳することは正しいかどうか。それをまず考えたということですね。僕もそうだと思います。

ディアローグ 今後四十年の文学を想像する ー 平野啓一郎 より